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はじめに(固定記事)
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「変わってる人」って何だろう
心理学を学ぶ人や心理士を目指す人は、変わっている人が多い、という話をよく聞きます。
でも、心理の分野に限らず「あの人は変わっている」とか「私は変わっている人」というのは、よく聞く言葉ですよね。
「変わっている」とは何を指すのでしょうね。
変人という言い方もよく聞きますが、それの指す内容は、実はそれほど一定のものがあるわけではないと思います。
ちなみに「私は変わっている」ということをひそかに嬉しそうに思っている人も多いですし、「あの人は変わっている」ということを批判的に言う人もいます。
つまり、実態がどうであるかより、何かを言うために、変わっているという表現が使われている部分も大きいかと思います。
(基本的に実態はないと思いますが、心理の分野特有のものとして、漠然と指していることは恐らくありますが、それについてはまたいずれ書きます。)
しかし、基本的には心理の分野に限らず「変わってる人」はいくらでもいますし、多くの領域・業界で変わっている人はたくさんいるのでしょう。
変わっているのか、(どこにでもいるのなら)変わっていないのか、よく分からなくなってきますね。
変わっているということを気にしてしまう方は、そんなもんだ、と思ってもいいかもしれません。
自分のアイデンティティとして、あるいは誰かについて「変わっている」と思いたい・考えたい方は、なぜ変わっていると言いたいか、に着目してみるのも面白いかもしれません。
でも、心理の分野に限らず「あの人は変わっている」とか「私は変わっている人」というのは、よく聞く言葉ですよね。
「変わっている」とは何を指すのでしょうね。
変人という言い方もよく聞きますが、それの指す内容は、実はそれほど一定のものがあるわけではないと思います。
ちなみに「私は変わっている」ということをひそかに嬉しそうに思っている人も多いですし、「あの人は変わっている」ということを批判的に言う人もいます。
つまり、実態がどうであるかより、何かを言うために、変わっているという表現が使われている部分も大きいかと思います。
(基本的に実態はないと思いますが、心理の分野特有のものとして、漠然と指していることは恐らくありますが、それについてはまたいずれ書きます。)
しかし、基本的には心理の分野に限らず「変わってる人」はいくらでもいますし、多くの領域・業界で変わっている人はたくさんいるのでしょう。
変わっているのか、(どこにでもいるのなら)変わっていないのか、よく分からなくなってきますね。
変わっているということを気にしてしまう方は、そんなもんだ、と思ってもいいかもしれません。
自分のアイデンティティとして、あるいは誰かについて「変わっている」と思いたい・考えたい方は、なぜ変わっていると言いたいか、に着目してみるのも面白いかもしれません。
買い占め行動
東日本大地震による被害に遭われた地域・方々の復興と少しでも東北と日本が元気を取り戻すことをお祈りしています。
さて、私は関東圏に住んでいますが、数日前まではスーパーやコンビニに食料(特に冷凍食品、パン、カップ麺、缶詰、惣菜、弁当)がほぼ売っていませんでした。
仕入れの問題もあるようですが、それ以上に買い占め行動による影響が大きいようでしたね。
放射能汚染を警戒して、ということでしょうか。
物が売っていない状況を見てさらに焦る→なくなる前に買い占める、という流れもあったのでしょうね。
私はボーっとしてたので、気づいたらほとんど買えるものがなくてちょっとびっくりました。
本当かどうか知りませんが、政府の発表によると食料もガソリンも買い占めをしなくても十分に賄えるだけの量は国内にある、とのこと。
多分それは本当なのでしょうけど、実際には店頭に物が売ってない状況だったということは、当たり前の話ですが、一部の人が食料等を必要以上に買って保管・保有しているということなんでしょうね。
この現実を見て、以前読んだとある本を思い出しました。
世界的には、本当は資源も食料も十分に足りている。
しかし、一部の人が必要以上に保有することで得られない人が出てくる。
「ある」人は奪われまいと必死になり、「ない」人は奪おうと必死になる。
根底にあるのは、なくなること・ないことへの恐れと欠乏感。
もし世界には十分な資源やお金や食料があるのなら、その欠乏感は本来幻想であったはずなのに、恐れることによって現実に欠乏を実現してしまったと言えるのでしょう。
(軍事費による影響も大きいようですが、軍事も恐れや欠乏は関連しているのでしょう)。
多分、そんな内容だったと思います。
私は経済のことはもちろん分かりませんし、私はたいしてエコでもない一庶民ですが、今回、実際にスーパーで商品棚に物が何もない状況を見て、世界の縮尺を見た気分でした。
本当に恐れから、欠乏は生まれるようですね。
人々の心理状態がこれほど現実に影響を与えるのかと改めて驚きました。
カップ麺なんか、「こんなにたくさん置いてそんなに売れるものなのかなぁ」と思ってしまうくらい普段は山積みしてあったのに、完全に空でしたからね。
でも、そこはさすがは日本人。
業者の方々の努力もあると思いますが、そういった行動は控えましょう、という政府やメディアの呼び掛けが出るようになってからは、随分落ち着いたようには感じました。
良くも悪くも、情報が人の心に与える影響というのはやはり大きいですね。
さて、私は関東圏に住んでいますが、数日前まではスーパーやコンビニに食料(特に冷凍食品、パン、カップ麺、缶詰、惣菜、弁当)がほぼ売っていませんでした。
仕入れの問題もあるようですが、それ以上に買い占め行動による影響が大きいようでしたね。
放射能汚染を警戒して、ということでしょうか。
物が売っていない状況を見てさらに焦る→なくなる前に買い占める、という流れもあったのでしょうね。
私はボーっとしてたので、気づいたらほとんど買えるものがなくてちょっとびっくりました。
本当かどうか知りませんが、政府の発表によると食料もガソリンも買い占めをしなくても十分に賄えるだけの量は国内にある、とのこと。
多分それは本当なのでしょうけど、実際には店頭に物が売ってない状況だったということは、当たり前の話ですが、一部の人が食料等を必要以上に買って保管・保有しているということなんでしょうね。
この現実を見て、以前読んだとある本を思い出しました。
世界的には、本当は資源も食料も十分に足りている。
しかし、一部の人が必要以上に保有することで得られない人が出てくる。
「ある」人は奪われまいと必死になり、「ない」人は奪おうと必死になる。
根底にあるのは、なくなること・ないことへの恐れと欠乏感。
もし世界には十分な資源やお金や食料があるのなら、その欠乏感は本来幻想であったはずなのに、恐れることによって現実に欠乏を実現してしまったと言えるのでしょう。
(軍事費による影響も大きいようですが、軍事も恐れや欠乏は関連しているのでしょう)。
多分、そんな内容だったと思います。
私は経済のことはもちろん分かりませんし、私はたいしてエコでもない一庶民ですが、今回、実際にスーパーで商品棚に物が何もない状況を見て、世界の縮尺を見た気分でした。
本当に恐れから、欠乏は生まれるようですね。
人々の心理状態がこれほど現実に影響を与えるのかと改めて驚きました。
カップ麺なんか、「こんなにたくさん置いてそんなに売れるものなのかなぁ」と思ってしまうくらい普段は山積みしてあったのに、完全に空でしたからね。
でも、そこはさすがは日本人。
業者の方々の努力もあると思いますが、そういった行動は控えましょう、という政府やメディアの呼び掛けが出るようになってからは、随分落ち着いたようには感じました。
良くも悪くも、情報が人の心に与える影響というのはやはり大きいですね。
「苦役列車」感想
芥川賞を受賞した、西村賢太さんの「苦役列車」を読みました。
私は、文学なんて全然分からないし、ましてや芥川賞受賞の凄さもよく分からないのですが、TVで見た何か内に抱えてそうなラフな男性(著者)、本は99%実際にあったこと、ということで興味はもってました。
その後、本屋で見かけて衝動買いです。
芥川賞作品に私の稚拙な感想なんて書いていいのか分かりませんが、まあ定価で買ったのでそれくらいいいですよね(笑)。
買う前は、貧しい日雇い労働時代の美しい青春が描かれているのかと思ってました。
まあ、それも間違いではないかもしれませんが、思ってたイメージと全然違いました。
主人公(おそらく著者)が、びっくりするくらいネガティブで歪んでいて、生育暦も含めた環境・状況もとても暗くて重い雰囲気でした。
数ページ読んで、(失礼ながら)「しまった」と思ってしまったくらいです。
予想外過ぎて。
でも、読んでいくうちに惹きこまれてはいきました。
特に、友達が全然いなくて心を閉ざしていた主人公に明るいお友達が出来はじめた頃からは。
その辺りは、この主人公に可愛らしさも感じましたし、瑞々しい青春の風景とも言えるかもしれません。
ところが、この主人公はとことんネガティブで我侭で依存的過ぎるため、徐々に良い関係が壊れていきます。
(「ところが」ではなく「やはり」というべきなのかもしれません。)
壊れていく描写が全然ドラマチックじゃないところがまたすごいです。
なんというか、すごくリアルなんです。
さすが、自伝小説。
私的には、こういうところがこの著者の凄さだと感じました。
嫉妬や憎しみなど自身のどろどろした部分や、友達と比較しての劣等感等、あまりにも自己中心的な妄想等、を余すとこなく書ききっています。
物語としてはドラマチックじゃないですが、誰もが目を背けたくなるような自身の内面をここまで描写した作品ってあまり見たことない気がします。
どんな著者なのか私には分かりかねますが、とことんネガティブでとことんそれを感じきっているところがこの方の魅力なのかもしれません。
感じきるって普通難しいですからね。
後半に収録されている別作品では、主人公が作家として活動している時期の話も出てきます。
ここでも主人公はひねくれています(笑)。
この主人公=著者は、一体どこに向かいたいのか、それが私には全然見えませんでした。
最終的に芥川賞をとっているという点では、遠くから見ればサクセスストーリーなんでしょうけど、サクセスストーリーとはまず感じられません。
私が時々思うのは、人生ってやはり特定の価値観からだけは語れない奥深さってあるよねってことです。
よく死ぬ前にならないと自分の人生がどうだったかなんて分からない、という方がいますが、そういうことも言えるかもしれないなと思いました。
私は、文学なんて全然分からないし、ましてや芥川賞受賞の凄さもよく分からないのですが、TVで見た何か内に抱えてそうなラフな男性(著者)、本は99%実際にあったこと、ということで興味はもってました。
その後、本屋で見かけて衝動買いです。
芥川賞作品に私の稚拙な感想なんて書いていいのか分かりませんが、まあ定価で買ったのでそれくらいいいですよね(笑)。
買う前は、貧しい日雇い労働時代の美しい青春が描かれているのかと思ってました。
まあ、それも間違いではないかもしれませんが、思ってたイメージと全然違いました。
主人公(おそらく著者)が、びっくりするくらいネガティブで歪んでいて、生育暦も含めた環境・状況もとても暗くて重い雰囲気でした。
数ページ読んで、(失礼ながら)「しまった」と思ってしまったくらいです。
予想外過ぎて。
でも、読んでいくうちに惹きこまれてはいきました。
特に、友達が全然いなくて心を閉ざしていた主人公に明るいお友達が出来はじめた頃からは。
その辺りは、この主人公に可愛らしさも感じましたし、瑞々しい青春の風景とも言えるかもしれません。
ところが、この主人公はとことんネガティブで我侭で依存的過ぎるため、徐々に良い関係が壊れていきます。
(「ところが」ではなく「やはり」というべきなのかもしれません。)
壊れていく描写が全然ドラマチックじゃないところがまたすごいです。
なんというか、すごくリアルなんです。
さすが、自伝小説。
私的には、こういうところがこの著者の凄さだと感じました。
嫉妬や憎しみなど自身のどろどろした部分や、友達と比較しての劣等感等、あまりにも自己中心的な妄想等、を余すとこなく書ききっています。
物語としてはドラマチックじゃないですが、誰もが目を背けたくなるような自身の内面をここまで描写した作品ってあまり見たことない気がします。
どんな著者なのか私には分かりかねますが、とことんネガティブでとことんそれを感じきっているところがこの方の魅力なのかもしれません。
感じきるって普通難しいですからね。
後半に収録されている別作品では、主人公が作家として活動している時期の話も出てきます。
ここでも主人公はひねくれています(笑)。
この主人公=著者は、一体どこに向かいたいのか、それが私には全然見えませんでした。
最終的に芥川賞をとっているという点では、遠くから見ればサクセスストーリーなんでしょうけど、サクセスストーリーとはまず感じられません。
私が時々思うのは、人生ってやはり特定の価値観からだけは語れない奥深さってあるよねってことです。
よく死ぬ前にならないと自分の人生がどうだったかなんて分からない、という方がいますが、そういうことも言えるかもしれないなと思いました。
カウンセリングに行くべき人は誰か(2)
カウンセリングに行くべき人は誰か(1)の続き
…どんな世界ができてくるかというと、「誰かが誰かをおかしい、治すべきだ」と思った時に初めて、カウンセリングが利用されることになるのです。
ここはかなり重要な転回点です。
そして、「誰かが自分をおかしいとは言わないが、私は悩んでいる」という理由でカウンセリングを利用するのは、恥ずかしいと感じたりためらいがちになってきます。
なぜなら、カウンセリングはおかしい人を治すものであるとするならば、利用することによって、自分で自分をおかしい人だと認めてしまうことになるからです。
(もちろん、自分のことをおかしい人と思っても構わないのですが、本来はそのことで抵抗を感じる必要はない、ということです。)
以前の記事でも書きましたが、実際に児童カウンセリングの分野では児童自身の意向は問われないことが多いですし、児童のカウンセリング(やプレイセラピー)は、問題児を修正するものとしか思われていない部分があります。
なので、少しずつそういう逆転した世界になりつつあると感じます。
(私は児童の分野で働いていた時は、それが窮屈で仕方ありませんでした。)
児童の分野ほどではありませんが、成人のカウンセリングでも、このような視点が浸透しつつあるように思います。
カウンセリングといえば、おかしい人が行くもの、というよく聞くあれです。
そして、実際にカウンセリングに行こうと考える方が、それらに影響されて迷うことになります。
行ったとしても、「私が何をどう感じるか」や「どうありたいか」ではなく「治してくれるのか」や「(私の気持ちや考えは差し置いて)どうすればいいか」ばかりを気にすることになりかねません。
「私が自分で自分のことを決めてはいけない・決められるものではない」と無意識に感じている状態とも言えます。
しかし、カウンセリングとは、あなたがあなたの悩みに対してあなた色で感じ・考えていく過程であり、カウンセラーはそのお手伝いの専門家です。
なぜなら、最終的にはあなたの納得がなければうまくいったとは言えないからです。
あなたが主人公となる体験・過程でなければあまり意味がないのです。
勘の良い方は気づかれたと思いますが、実のところ、一つ目の視点は第三者の視点・客観的な視点ということでありながら、第三者の(利用者に対する)主観でもあるのです。
客観というのは、ある人から見た別の誰かもしくは別の誰か達の主観です。
客観というのは所詮そんなものですが、上記のように利用者がそれ(客観という名の主観)に飲み込まれてしまっていることがあります。
私は、カウンセリングは「悩んでいる人・相談したい人・利用したい人」が利用することのできるサービスだと思っています。
だから、(一部の例外を除き)基本的には誰が利用してもいいものなのです。
私の願いは、そういうカウンセリングの文化が広まっていくことです。
カウンセリングは誰のためのものか、が改めて問われている時代にきていると思います。
…どんな世界ができてくるかというと、「誰かが誰かをおかしい、治すべきだ」と思った時に初めて、カウンセリングが利用されることになるのです。
ここはかなり重要な転回点です。
そして、「誰かが自分をおかしいとは言わないが、私は悩んでいる」という理由でカウンセリングを利用するのは、恥ずかしいと感じたりためらいがちになってきます。
なぜなら、カウンセリングはおかしい人を治すものであるとするならば、利用することによって、自分で自分をおかしい人だと認めてしまうことになるからです。
(もちろん、自分のことをおかしい人と思っても構わないのですが、本来はそのことで抵抗を感じる必要はない、ということです。)
以前の記事でも書きましたが、実際に児童カウンセリングの分野では児童自身の意向は問われないことが多いですし、児童のカウンセリング(やプレイセラピー)は、問題児を修正するものとしか思われていない部分があります。
なので、少しずつそういう逆転した世界になりつつあると感じます。
(私は児童の分野で働いていた時は、それが窮屈で仕方ありませんでした。)
児童の分野ほどではありませんが、成人のカウンセリングでも、このような視点が浸透しつつあるように思います。
カウンセリングといえば、おかしい人が行くもの、というよく聞くあれです。
そして、実際にカウンセリングに行こうと考える方が、それらに影響されて迷うことになります。
行ったとしても、「私が何をどう感じるか」や「どうありたいか」ではなく「治してくれるのか」や「(私の気持ちや考えは差し置いて)どうすればいいか」ばかりを気にすることになりかねません。
「私が自分で自分のことを決めてはいけない・決められるものではない」と無意識に感じている状態とも言えます。
しかし、カウンセリングとは、あなたがあなたの悩みに対してあなた色で感じ・考えていく過程であり、カウンセラーはそのお手伝いの専門家です。
なぜなら、最終的にはあなたの納得がなければうまくいったとは言えないからです。
あなたが主人公となる体験・過程でなければあまり意味がないのです。
勘の良い方は気づかれたと思いますが、実のところ、一つ目の視点は第三者の視点・客観的な視点ということでありながら、第三者の(利用者に対する)主観でもあるのです。
客観というのは、ある人から見た別の誰かもしくは別の誰か達の主観です。
客観というのは所詮そんなものですが、上記のように利用者がそれ(客観という名の主観)に飲み込まれてしまっていることがあります。
私は、カウンセリングは「悩んでいる人・相談したい人・利用したい人」が利用することのできるサービスだと思っています。
だから、(一部の例外を除き)基本的には誰が利用してもいいものなのです。
私の願いは、そういうカウンセリングの文化が広まっていくことです。
カウンセリングは誰のためのものか、が改めて問われている時代にきていると思います。



