カウンセリング・悩み相談の心in所沢

心理カウンセラーが綴るカウンセリングの小話&日記

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「苦役列車」感想

芥川賞を受賞した、西村賢太さんの「苦役列車」を読みました。

私は、文学なんて全然分からないし、ましてや芥川賞受賞の凄さもよく分からないのですが、TVで見た何か内に抱えてそうなラフな男性(著者)、本は99%実際にあったこと、ということで興味はもってました。

その後、本屋で見かけて衝動買いです。

芥川賞作品に私の稚拙な感想なんて書いていいのか分かりませんが、まあ定価で買ったのでそれくらいいいですよね(笑)。

買う前は、貧しい日雇い労働時代の美しい青春が描かれているのかと思ってました。
まあ、それも間違いではないかもしれませんが、思ってたイメージと全然違いました。

主人公(おそらく著者)が、びっくりするくらいネガティブで歪んでいて、生育暦も含めた環境・状況もとても暗くて重い雰囲気でした。

数ページ読んで、(失礼ながら)「しまった」と思ってしまったくらいです。
予想外過ぎて。

でも、読んでいくうちに惹きこまれてはいきました。
特に、友達が全然いなくて心を閉ざしていた主人公に明るいお友達が出来はじめた頃からは。

その辺りは、この主人公に可愛らしさも感じましたし、瑞々しい青春の風景とも言えるかもしれません。

ところが、この主人公はとことんネガティブで我侭で依存的過ぎるため、徐々に良い関係が壊れていきます。
(「ところが」ではなく「やはり」というべきなのかもしれません。)
壊れていく描写が全然ドラマチックじゃないところがまたすごいです。

なんというか、すごくリアルなんです。
さすが、自伝小説。

私的には、こういうところがこの著者の凄さだと感じました。
嫉妬や憎しみなど自身のどろどろした部分や、友達と比較しての劣等感等、あまりにも自己中心的な妄想等、を余すとこなく書ききっています。

物語としてはドラマチックじゃないですが、誰もが目を背けたくなるような自身の内面をここまで描写した作品ってあまり見たことない気がします。

どんな著者なのか私には分かりかねますが、とことんネガティブでとことんそれを感じきっているところがこの方の魅力なのかもしれません。
感じきるって普通難しいですからね。

後半に収録されている別作品では、主人公が作家として活動している時期の話も出てきます。
ここでも主人公はひねくれています(笑)。

この主人公=著者は、一体どこに向かいたいのか、それが私には全然見えませんでした。
最終的に芥川賞をとっているという点では、遠くから見ればサクセスストーリーなんでしょうけど、サクセスストーリーとはまず感じられません。

私が時々思うのは、人生ってやはり特定の価値観からだけは語れない奥深さってあるよねってことです。
よく死ぬ前にならないと自分の人生がどうだったかなんて分からない、という方がいますが、そういうことも言えるかもしれないなと思いました。

カウンセリングに行くべき人は誰か(2)

カウンセリングに行くべき人は誰か(1)の続き

…どんな世界ができてくるかというと、「誰かが誰かをおかしい、治すべきだ」と思った時に初めて、カウンセリングが利用されることになるのです。
ここはかなり重要な転回点です。

そして、「誰かが自分をおかしいとは言わないが、私は悩んでいる」という理由でカウンセリングを利用するのは、恥ずかしいと感じたりためらいがちになってきます。

なぜなら、カウンセリングはおかしい人を治すものであるとするならば、利用することによって、自分で自分をおかしい人だと認めてしまうことになるからです。
(もちろん、自分のことをおかしい人と思っても構わないのですが、本来はそのことで抵抗を感じる必要はない、ということです。)

以前の記事でも書きましたが、実際に児童カウンセリングの分野では児童自身の意向は問われないことが多いですし、児童のカウンセリング(やプレイセラピー)は、問題児を修正するものとしか思われていない部分があります。
なので、少しずつそういう逆転した世界になりつつあると感じます。
(私は児童の分野で働いていた時は、それが窮屈で仕方ありませんでした。)

児童の分野ほどではありませんが、成人のカウンセリングでも、このような視点が浸透しつつあるように思います。
カウンセリングといえば、おかしい人が行くもの、というよく聞くあれです。
そして、実際にカウンセリングに行こうと考える方が、それらに影響されて迷うことになります。

行ったとしても、「私が何をどう感じるか」や「どうありたいか」ではなく「治してくれるのか」や「(私の気持ちや考えは差し置いて)どうすればいいか」ばかりを気にすることになりかねません。
「私が自分で自分のことを決めてはいけない・決められるものではない」と無意識に感じている状態とも言えます。

しかし、カウンセリングとは、あなたがあなたの悩みに対してあなた色で感じ・考えていく過程であり、カウンセラーはそのお手伝いの専門家です。
なぜなら、最終的にはあなたの納得がなければうまくいったとは言えないからです。
あなたが主人公となる体験・過程でなければあまり意味がないのです。

勘の良い方は気づかれたと思いますが、実のところ、一つ目の視点は第三者の視点・客観的な視点ということでありながら、第三者の(利用者に対する)主観でもあるのです。
客観というのは、ある人から見た別の誰かもしくは別の誰か達の主観です。

客観というのは所詮そんなものですが、上記のように利用者がそれ(客観という名の主観)に飲み込まれてしまっていることがあります

私は、カウンセリングは「悩んでいる人・相談したい人・利用したい人」が利用することのできるサービスだと思っています。
だから、(一部の例外を除き)基本的には誰が利用してもいいものなのです。

私の願いは、そういうカウンセリングの文化が広まっていくことです。
カウンセリングは誰のためのものか、が改めて問われている時代にきていると思います。

カウンセリングに行くべき人は誰か(1)

カウンセリングというのは、効果や必要性ということがよく語られます。
言葉をかえれば「誰がカウンセリングに行くのか、そして、何をもってして効果とするか」というお話です。

非常に繊細な話なので、ちょっと書きにくいことなのですが、大事なことなので書いてみます。
皆さん「私はカウンセリングに行くべき人なのか」と迷っているならば、ぜひこの記事をお読みください。

効果や必要性というものは、実は二種類の捉え方があり得ます。

・一つは、客観的な視点です。
カウンセリングを利用する人自身についてのことや、その人の変化や経過等を外から見た視点、つまり第三者視点(客観的視点)で見たものです。


・もう一つは、カウンセリングを利用する人側の主観的な視点です。
カウンセリングを利用する方がどう考えるかというその人の主観、そしてその主観でとらえる自分の変化もしくはトータルな意味での満足感(効果)、等です。


この二つがあることに皆さん気付かれてましたか?
二つの視点はごちゃごちゃにされていることが多いと思います。

意見は分かれると思いますが、私は、どちらかというと、この二つ目の視点の方が大事だと思っています。
なぜなら、カウンセリングの予約をする方が本来求めていることは二つ目のそれだからです。

以下、その理由を述べていきます。

まず、効果についてです。
当たり前なのですが、たとえばカウンセラーが利用者に対して「あなたは、もう十分カウンセリングの効果がありましたよ」あるいは「まだ効果が出てないようですね」等のことを言うのは、そもそも変な話なのです。
これは文脈によっては滑稽な言葉に映ると思います。

カウンセラーはそんな結論をくだせる立場ではないのです。
なぜなら、そう言われても利用者が全くそう感じていなければ、意味のない話だからです。

なので、実のところ効果といったところで、利用者それぞれの反応があるという理由で、万人に通用するような定まった基準はないと私は考えます。

また、あくまでプロセスの中でのやりとりとしてカウンセラーから見た変化を語るのであれば、特に問題ではありませんが、カウンセリングの場合、基本的には利用者がどう感じているかに重きがあるものです。

つまり利用者が“自分のために”カウンセリングに通っているのであれば、利用者がどう感じているかが全てになります。

これらは、皆さんは当たり前のことだと思いますでしょうか?
後で述べますが、実は既に当たり前のことではなくなってきています

次に、必要性ということについて。
利用者側の主観に重きがあるとする立場に立てば、他人やカウンセラー側が「あなたは~等色々とおかしいし問題があるから、カウンセリングの必要性がある」という話も実はおかしいということになります。

少し難しくなりますが、ここが「治す・治してもらう」という医療的発想とは異なる部分だと私は思います。

もちろん、カウンセラー側も最終的な利用者の利益を考えて、利用者の社会的適応がどうであるか、等についても考えますし、そのことの心配もあれば、バランスをとろうと試みることもあると思います。

しかし、これらを推し進めていくとどんな世界ができてくるかというと…
カウンセリングに行くべき人は誰か(2)に続きます。

100か0か、は悩みやすい。

カウンセリング利用者や悩みやすい人の中で、非常に多くの人に共通するタイプというものがあります。

それは、100か0かで物事を考える傾向が強い、ということです。
別の言い方をすると、極端である、ということもできます。

たとえば何かの試験でたとえると、テストで100点が取れないのなら全く勉強しない、あるいは、勉強するとなると完璧を目指し衰弱してしまうのではないかというくらい必死になる、等のようなかたちになります。

上の例は文字通りの明快な例ですが、もっと微細な場合もあります。

「傷つくくらいなら、(何かに関して)動かない」、これも100か0か・極端な人の一つの形態でもあります。
絶対に負けたくない、負けることだけは死んでも嫌だ、等の思いも、その一つと言える場合があります。

そして、タイトルの通り、やはり100か0か・極端な傾向のある方は悩みやすいと思います。
悪循環に陥ることもあります。

しかし視点を変えると…
たとえば恋愛においては、「傷つくくらいなら動かない」のようなためらいも青春の一つでもありますし、可愛らしさと見る人もいると思います。
スポーツをやっている方等は、その負けたくない心性がうまく活かされる場合もあると思います。

とはいえ、そのように考えるためには、それらの傾向を柔軟にとらえることができているという条件が要ります。
しかし、そもそも100か0かの傾向は、柔軟さとは反対に位置しているものです。

これらの傾向が強ければ強い程、うまくいかないことや本人の主観として悩みがたくさんあるという状態につながりやすいので、悩みやすい方は一度このことについて考えてもいいかもしれません。

カウンセリングでも、これらのことが話題になることはありますが、もちろんこれらはあくまで一つの切り口です。
一つの切り口ですが、もしピンときやすい視点であるなら、これも重要な切り口にはなり得ると思います。

感動すること(サッカー日本代表を見て)

ワールドカップ、日本代表はパラグアイに負けてしまいました。

しかし、見ていて、本当に何度も感動させられました。

私が感動したポイントは、中村憲剛選手が交代出場後にみせてくれた皆を助けるかのような献身的なプレイ、闘莉王選手がコーナーキックで攻めに参加した後に歯を食いしばって自陣に戻る姿、PKを外した駒野選手を励ます皆の姿、試合後の長谷部選手のインタビュー、etc…、たくさんです。

もう、鼻呼吸ができなくなるほど、何度も涙を流したように思います。

日本代表の戦いを見ていて、こんなにも感動させられるのはなぜだろう、と少し考えてみました。

やはり必死に努力している姿というのは、心をうつものだなと思いました。

もう一つは、人が人を思う気持ち、それはとても美しいと感じました。

駒野選手がPKを外した後に、彼を入れて皆で肩を組み合う姿、試合後も彼を気にかけ次から次へと選手やスタッフが駆け寄ってくるシーンは本当に美しかったです。

カウンセリングとは全く関係のない話題が続いてしまいましたが、人が何からエネルギーや元気をもらえるか、改めて感じさせてもらったことに感謝したいと思います。

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